関東一社 桐生西宮神社
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蛭子大神さまが福徳財宝の神

 いつの時代にあっても、二十二世紀の代も、蛭子大神さまが、福の神の本流として、また、日本人の心のより所としても、親しまれ続けていただきたい。
  人が人として、もっとも尊いことは、思いやる心。労(いたわ)る心。尊び敬う心であります。障害者や弱い立場の人に、思いやりと、労りの行為を、福祉や介護を枕詞(まくらことば)として、ボランティアからノーマライゼーションの名のもとに、意識改革の重要性とともに、「美徳」的とらえ方が、最近の傾向でもありますが、福の神・ゑびす信仰の原点こそ、今日的課題として、先人が、「福の神」に名を変えて、現代人に託した尊い教えでもあります。

 蛭子大神さまが神格を得て、福の神の本流としての成立過程は、多くの庶民層による、労りと思いやりの善行行為そのものであります。
  蛭子大神さまは、父神を、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」。母神を、「伊耶那美命・いざなみのみこと(以下父神・母神)」二神(ふたはしら)の御子で、長子とも初子あるいは第三子ともされております。

 『古事記』で、両父母神の神婚の条(くだり)に、天の御柱(あめのみはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を建てて神婚生活に入ることになり、父神が母神に、「汝が身はいかに成れる」と尋ねると、母神は「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」と答え、父神も続けて「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処ある」。故この「吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土生みなさむと思ふはいかに」。母神も「しか善けむ」。父神が「然らば吾と汝と、この天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗の麻具波比せむ」と期りて互いが、天の御柱を左右から廻り、出逢った場所で契りを結ぶことに決め、父神が御柱の左より廻り、母神が右から廻りながら「あなにやし、えおとこを」と言い、続いて父神が「あなにやし、え娘子を」と言いました。しかし言い終わったあと、父神が、「女人先だち言へるはふさはず」と告げたが、そのまま契りを結んで、生まれた御子が「水蛭子・ひるこ」であります。

 『日本書紀』に、この御子は、「三年たっても足腰が立たない」手足が萎(な)えた、骨なしの蛭(ひる)のような形をした、生まれながらの障害児としております。
  また、「ヒルコ」については、天照大神(あまてらすおおみかみ)の別称、大日霎尊(おおひるめのみこと)の「日女・ヒルメ」に対する、日(陽)神を顕わす「日子・ヒルコ・彦・ヒコ」説で、男性太陽神説。 さらには、養蚕県と、絹織物産地である桐生人として嬉しい説は、ヒル神信仰説も紹介したい。お蚕(かいこ)は、生まれ変わって(繭に)形を変えて、人びとに利益をもたらす有益な、「蛹・蚕・蛾(さなぎ・かいこ・が)を「ヒル」とも呼び、神格を与えたヒル神信仰の片鱗説。

 尊い御子を、方舟(はこぶね)に入れて流す神話は、他民族にも多く、可愛い我が子を苦難の旅に出したり、千尋の谷に突き落とす動物の話もあります。神道で、御璽(みしるし)を納め奉る、最も重要な器(うつわ)が、御船代(みふなしろ)であり、水蛭子が尊い御子だからこそ、「船」に乗せる祭祀とも考えられます。
  記紀神話では、日本の国生みにあたって国土とは認めがたい失敗児、統治者資格を欠く障害児として位置づけられており、『古事記』では「葦船・あしぶね」、『日本書紀』は、「天磐櫞樟船・あめのいわくすぶね」に乗せて流し捨てられたとしております。ともかく、流された水蛭子(ひるこ)は、大海原(おおうなばら)を漂流し、艱難辛苦の果てに、摂津国(せっつのくに・兵庫県)西宮の浦に無事漂着されました。西宮市の心優しい先人は、流れ着いた水蛭子を、「蛭子神・ひるこのかみ」として養い奉じ、「夷三郎大明神・えびすさぶろうだいみょうじん」として崇め、西宮夷神社(現在の西宮神社)を創建しました。

 想像を絶する精神力と、生きるための、懸命な努力に対して、驚嘆から畏敬(いけい)の「神格」は、同情や哀れみを超越した「人としての優しさと思いやり」の、自然な行為が、「尊びと敬う心」からの祭祀となりました。
  「エビス」は、蛭子・夷・戎・恵比須・恵比寿などと表意されているが、「エビス」そのものは、異邦人を意味する言葉であって、異郷から来臨して、人間に幸(さち)をもたらす、客神(まろうどしん)であります。
  福徳財宝とともに、異文化と新技術をもたらす、異郷からの賓客(まろうど)の接点は、山の中ではなく、未知の世界へと続く、海岸がふさわしい。鯨やイルカなどに追われて、魚群が海浜近くに現れる現象を、漁民の眼には、鯨やイルカが、大漁をもたらす霊力ある神として、畏敬からか「エビス」と呼ぶ魚村も多い。大漁・豊漁の兆しを、忌詞(いみことば)としての呼称から、「エビス」と呼んだものと思われる。漁網の中央を表示する浮標(うき)を、「恵比寿網端(えびすあば)」。もしくは「恵比寿」とも呼んだりする。また、目隠しをした若者が、海中から無作為に拾い上げた石を、「恵比須石」として、豊漁守護の御神躰としたり、奇異奇怪な形状の石を御神躰として、豊漁をもたらす神霊の璽(しるし)とする信仰は、各地に多く存在します。

 福の神・恵比須信仰は、当初、豊漁や航海安全の守護神としての信仰から、それを商う市(いち)・市場の神として祀られました。
  「市神・いちがみ」としての勧請嚆矢(こうし)は、西暦六百年、聖徳太子が、四天王寺建立にあたり、西方守護と「市場」鎮護の神として、西宮夷神社を勧請されたのが、現在の、大阪市浪速区恵比須町の今宮戎神社であります。 他にも、奈良・東大寺八幡宮の「夷」と「三郎殿」の二神。京都・石清水八幡宮の「夷宮」。京都・北野天満宮の「夷社」。京都・八坂神社の末社「蛭子社」。近江坂本・日吉神社の上中下各七社のそれぞれに「戎神」「夷宮」「三郎殿」。鎌倉・鶴岡八幡宮には、西門脇に「三郎大明神」など、著名有力社寺が「エビス神」を祭祀している。
  全国の神社を総括した神祇伯は、度々西宮に下向しました。また、鎌倉期における、稀代の傑僧として知られる、真言律宗の開祖叡尊や、時宗の一遍上人など、貴族や高僧も、エビス神の御神徳を慕って、参拝しております。
  海上交通・航海安全の守護神としては、臨済宗の祖、栄西禅師が入宋留学敢行の船中に、「夷子像」を祀って暴風雨の難から逃れ、京都・建仁寺建立にあたり、真っ先に、「恵美須神社」を鎮守として祭祀しております。 神号としての「エビス」は、平安期の「伊呂波字類抄」に初見でき、「夷・エビス・三郎殿・百太夫」と現在の西宮神社と比定される前身社号や、現在と一致する神域の記述が見られます。

 「蛭子(児)神がエビス神」として西宮に祀られている文献上の初出は、鎌倉期の「神皇正統録」と「源平盛衰記」で、「西宮のエビス信仰」の定着が知られます。
  「市」の発展は商業も発達させて、「商業守護」の信仰が、「福の神」に発展するにおよんで、京の町衆を始めとして、商人の信仰を集めるようになり、室町期には、商家で商売繁盛と流通(渡り商い・上州持ち下り商人・江戸期の桐生織物では、国売り)の安全を祈願して、「エビス講」が催されるようになりました。
  福の神信仰ならば、漁業と商業者ばかりではなく、農山村すべての人達も、望むところであります。春エビスと秋エビスの実施日は、「田の神」と「山の神」そのもので、「農業神」として、自然に受け入れられます。海岸から離れた内陸部まで、恵比須信仰が伸展した背景は、西宮本社の神人(じにん)であった傀儡師(くぐつし)による、夷舁き(えびすかき)と戎まわしの芸能者が、神事芸能とともに、御神札と御神影札をたずさえて、全国に御神徳と御利益を、漂泊布教しました。当初は、豊漁や商売繁盛の御神徳を、理解しやすいように「芸能」をセットしたものと考えられるが、定まった御神徳であっても、自分流に、地域流にファジーに受け入れられて、それぞれの生産活動に対して、福徳をもたらす多種多彩な福の神が各地に定着します。
  首から下げた胸前の箱から、人形(木偶・でく)を出して操(あやつ)る「夷まわし」は、日本が世界に誇る、伝統芸能「文楽」の直接的な祖となりましたが、元来は、神の依代(よりしろ)であった人形(ひとがた)・形代(かたしろ)に、中国から渡来した散楽(さんがく)衆の傀儡(かいらい・操り・からくり)と結ばれ、さらには、「語り物」と合体して、日本独特な人形芝居が生まれました。
  演出内容とせりふ(語り)の実態は不明ですが、文楽への影響以前に、ストーリー性からも、神楽への影響も考えられます。各地に伝承されている里神楽の、「蛭子の舞」、「夷・恵比寿の舞」、「鯛釣り」などは、定番的な演目で、西宮神人による「夷まわし」からの影響と考えるのが、自然であります。海や鯛を見たこともない観衆に、福徳財宝が来訪する御神徳を説明する画期的な手法であり、広沢町の賀茂神社に伝承する宮比神楽は、群馬を代表する江戸系里神楽で、海での鯛釣りではなく、居ないはずの川での鯛釣りと、ゑびす様(とともに長老や年配者)を、尊び敬う手法と、作法や、理由まで、説明する演出になっている。
  芸能が伴えば、福の神の御神徳は容易に理解されても、その場かぎりの漂泊布教では、恒久的な恵比須信仰が定着するとは考えられない。「エビス」が福の神の本流として、現在に定着した最大の理由は、西宮本社の特徴的な布教手法で、御神札を継続して配布する特権と、寺社奉行からの御墨付を与えて、各地に「西宮社家」として認めた「恵比寿太夫」が、御神札頒布に務めた功績が大きい。
えびす様  山形県の阿部家では、配札範囲は数百ケ村に及び、群馬の恵比寿太夫の記録では、早くも正徳四年(一七一一)から、沼田の小林家が世襲的に務めておりました。「沼田寺院并修験社家録」には、「西宮夷」として小林民部。その触下に、左近・主膳が見える。明治期や現在の配札状況は未確認であるが、桐生西宮講が盛んに組織された、明治末期から昭和初期には、沼田・前橋・高崎方面に、桐生の講中が多数存在しました。風折烏帽子(かざおりえぼし)・狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)のいでたちで、右手に釣竿を担ぎ、左の小脇に鯛を抱えて、満面に笑みをたたえた御姿は、まさに福の神で、「笑顔にまさる財産なし」とされる福徳円満の象徴であります。

 恵比須神ご神徳の多様性は、昔も今も、そして将来も自由自在に変化進展しても、蛭子大神さまは、全てを受入れて、ゑびす顔で加護して下さるに違いない。
 平成十一年夏、甲子園球場における、全国高校野球選手権大会で、桐生第一高等学校の快進撃は、球都桐生に、破格の自信と勇気、そして活性がもたらされました。
  準決勝戦を明日に控えて、PTA関係者から、「ここまで勝ち進んだからには、(桐生の)ゑびすさまの御本社に、必勝祈願のお参りをしよう」。参拝者が握りしめた「御守り」の神威が通じたのか、おかげで快勝し、決勝戦の早朝には、お礼参りとともに、さらなる御加護を祈願しました。
  神頼みの参拝団が、頒布所で眼にした「御神札・おふだ」のなかに、海なし県の桐生では知る縁(よし)もない「大漁満足」にくぎづけとなり、「大量得点」がイメージされ、藁にもすがる思いから請けた「大型御神札」を掲げての大応援は、マスコミ各社の注目とともに、蛭子大神さまの確かな神威と御加護もあってか、球都桐生に悲願の大優勝旗がもたらされました。
  全国制覇の余韻が残るその年の、桐生西宮神社秋期例祭の準備中に、「ゑびす講に、桐生第一高校が御礼参りに参拝したい」との情報を受け、念のため、西宮本社より急遽「大漁満足」の「御神札」を請けての準備を整えました。
  ゑびす講当日、桐生第一高校関係者はもとより、「商店主」から、「大漁満足は響きが新鮮でお客さんから大好評」、との絶賛の声が評判となり、準備した数十躰が瞬く間に頒布されました。
  現在の「御神徳・御利益」とは、このように多様であります。敢えて、「大量得点」としなくとも、神が一方的に決めるものではなく、努力に値する福徳の招来とともに、ひたむきな精進を見届けた、周囲の善人が主体となって、神とともに、自在に定める傾向となってきました。そのことも、ゑびす顔した「蛭子大神さま」の御神徳でありましょう。


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