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ゑびすだいこく福の神

平塚貞作 著 2000.11

平塚貞作 著 2000.11

桐生西宮神社は、西宮本社の
直系分社として、明治三十四年
十一月二十日に分霊勧請されました

多くの日本人にとって、琴線に心地よい響きのフレーズは、「ゑびす・だいこく・福の神」に相違ない。福の神信仰の本拠は、日本一社として知られる、兵庫県の西宮神社であります。
 桐生西宮神社は、西宮本社の直系分社として、明治三十四年十一月二十日分霊勧請されました。御祭神は、蛭子大神(ひるこおおかみ)さまで、鎮祭地は、社叢森厳にして、風光明媚な桐生ケ丘に抱かれた、美和神社の聖地に、相殿神(あいどののかみ)として奉詔遷座されました。
 県内有数の古社として知られる、式内社・美和神社の御祭神・大物主命は、別称が大国主命で、江戸時代には、イメージを習合させて、大黒さまとして成立しました。
 相殿神とは、美和神社の同格主祭神であり、桐生西宮神社の秋期例祭・ゑびす講は、恵比須・大黒の二神が並祀された、他に類例ない特別祭祀で、福徳財宝の神として、確かな御神徳が期待されております。
 各地に、ゑびす神が存在しますが、多くは、御祭神に、事代主命、もしくは大国主命を祀ります。ゑびす神と称する、真の福の神・蛭子大神さまの、御分霊を斉(いつき)奉る神社は、桐生西宮神社が、関東で、一社であります。
 関東一社の称号を冠した、桐生ゑびす講は、確かな御神徳とともに、関東一の賑わいとして定評されております。
 しかし、福の神に期待する多くの善男善女が、御祭神の相違や称号を意識されて、御参りされているのでしょうか。
 おそらくは、桐生ゑびす講の祭礼情緒と、関東一の神賑わいに、福徳財宝の神としての、確かな御神徳を、実感されていることと思われます。
 関東一社の、真の意味は、西宮本社の直系分社として、伝統を温存した、祭祀と神事に加え、福の神としての、確かな御利益に納得いただける、神賑わいが、桐生流の祭礼様式に、構築されております。さらには献幤使(けんぺいし)として、現在も西宮本社より、宮司や神職のご列席を仰いでの、神事の厳修は、本社直系祭儀の挙行であります。また、西宮本社で、厳粛に御祈祷された御神札(おふだ)と、御神影札(おみえふだ・お姿)の直接頒布(はんぷ)こそ、関東一社の冠をいただく、自負からの踏襲にあります。
 先人が、敢えて、関東一社と称した背景は、養蚕から販売にいたる、全ての織物関係従事者の、創意工夫や技術向上の奮起を、福の神・ゑびす信仰に直結させて、高級絹織物の生産性向上を直視し、織都桐生の存在誇示と、桐生人特有の、本格好みを先取りした、先人の知恵であります。
 桐生織物と福の神・ゑびす信仰は、古くから存在しました。織物生産で産業経済が古くから発達した桐生では、都市機能としての市(いち)が立ち、織物や生産資材はもとより、後背地の農山村部からも多くの人出があり、各種の生活用品が売買されました。特に、恵比須講直前に立つ市を、「ゑびす講前市」と称し、冬物用品を求める群衆で大変な賑わいでした。
 この頃のゑびす講は、福徳財宝の招来と、生業繁栄を願う、家々での「ゑびす講」であり、西宮本社の神人(じにん)であった傀儡師(くぐつし)や、御神影札(おみえふだ)を配札したゑびす太夫が説いた、御神徳を地域流に解釈し、養蚕や織技術の向上など、桐生らしさの、福の神信仰となりました。
 各地で行われた一般的なエビス講は、一月二十日のゑびす講を、正月エビスや春エビスと呼び、商家のエビス講とか、エビス様が働きに出掛けるので、簡素なエビス講を祝い。秋のゑびす講は、農家のエビス講で、エビス様が稼ぎから帰って来るので、盛大に祝う例が多く、総体的には神頼み的な福の神信仰であります。
 桐生周辺の、農山村や養蚕地帯でも、通俗的なゑびす講が行われました。民俗的な注目点は、家族全員の財布と通帳や、子供の貯金箱まで供えての、福徳と財宝の倍増祈願も見られましたが、賃機(ちんばた)稼ぎと関連職種はもとより、農林業から、都市部の商家や諸職のすべてが、織物業との関わりが深く、桐生織物の広範な産地圏は、織物が求めた職種と、育んだ文化が多彩で、経済・文化の影響は濃密に関わり、ゑびす講の日は、御神札と、お姿の御神影札を請けるために、桐生西宮参りが一般的に行われました。
 桐生地方に、古くから、ゑびす講が定着した要因の一つに、桐生の気象歳時記として特筆できる、「ゑびす講と生活暦(ごよみ)」としての節目が、桐生人の、忍耐の源(みなもと)の一つとして、知られております。
 奉公人はもとより、桐生人の多くは、どんなに寒い年でも、足袋と炬燵の使用は、「ゑびす講の日から」許されました。奉公人への「足袋のお仕着せ」も、ゑびす講の日と定着しており、寒さに耐えながらも、生業に励む張り合いとして、『ゑびす講まで』、という目標の存在が、桐生人を奮起させる支えとなっておりました。
 他に類例を見ない、特徴的な「桐生のゑびす信仰」は、機業や商家の旦那(主人)衆が、奉公人(従業員)に「職務に精励の結果が福の神」で、職能知識と卓越技術の修得によって、「自らが招くゑびす信仰」に、導きました。生産性を重視した産業経済都市・織都桐生ならではの、福徳財宝は「自らが目指し獲得する」ゑびす信仰が成立しました。
 記録された、福の神・ゑびす信仰は、
◇ 明和三年(一七六六)に、絹市の夷講前市(えびすこまえいち)の盛況から、町中警護と、火の用心の必要を、御役人に申し出ております。
◇ 文政八年(一八二五)上州三富豪の筆頭として著名な、織物買継商・佐羽家の家定家訓は、現在の社是社訓・就業規則に相当するもので、全十三条からなり、その第二は、家業繁栄と開運のため、西宮大神宮を信仰しなさい。と明確に定めております。
 家訓は代々改定し、天保九年(一八三八)改正では、蛭子様(えびすさま)の日は、夜なべ仕事が免除されております。この頃の、商家や機業における、奉公人の勤務時間は、朝四時から夜十時迄が通例でした。
◇ 安政四年(一八五七)、買継商・書上家が記録した「恵比寿講記事録」は、取引先や同業者、町内有力者から出入職人、内輪客などを招待して、ゑびす講の大饗宴が開かれている。書上家の恵比寿講は、実施日の異動があるものの毎年行われ、饗宴にあたっては、来賓応接方。饗応方。給仕指図方。来賓残肴始末方。出入口見張番。風呂番。夜番など二十に及ぶ役割分担が定められ、それぞれに、責任者と担当者が配置される周到で、商売繁盛としての福の神信仰の盛大は、恵比寿講料理の献立からも伺えます。
 年によって素材の出入りがあるものの、大正期まで大同小異で、明治二十五年の献立は、【皿】なま須・人参・大根・むき身。【汁】崩し豆腐・銀杏大根・魚あら。【香の物】浅漬・大根。【平】鯛切身・蓮根・椎茸・芋・青菜。【飯】上白。【吸物】柚子・合鴨・松茸・水菜。【丼】きんぴら午旁・数の子。【鉢肴】酢だこ・葉わさび・戻し菜。【丼】からし・ぬた・ねぎ・むきみ。【鉢肴】鯛切身・面取大根。【吸物】かまぼこ・かしわ。【畄肴】鮪刺し身・志らが大根・ぼう婦・わさび。【酒】壹樽。【引き出物】は、出世魚のブリの大切身まで、十三皿二十品以上の料理をあしらい、総費用七十七円十四銭五厘を投じた豪勢なもてなしで、内輪客を含め、招待客四十二人と、番頭以下子供まで、総勢百二十一人の部屋割りまでする、豪商のゑびす講行事のいったんと、主人と来訪者・参加者のエビス顔が目に浮かびます。
◇ 嘉永三年(一八五○)有力機業の食事之定に、恵比須講の日は、フナ・サンマ・イワシ・塩物類。高騰していなければ、ブリ・鮭に変えての、恵比須講の膳と酒が、主人より振舞われました。通常の朝食と、昼食のおかづは、漬物だけで、夕食に、煮豆と菜浸しが加わる程度の信じがたい粗食であり、福の神・ゑびす信仰の御利益と、御神徳を実感させております。
◇ 明治三十二年(一八九九)大手機業の工場規則の中に、勤務時間は、通常朝五時より夜九時までが定められているが、恵比須講などの物日(ものび)は、昼迄の勤務で、午後は早終いの待遇改善となりました。
 この年の、織物関係従事者は、男性二千五百三十五人、女性三万二千三百十五人、賃機業者五千九百八十七軒、関連業者千二軒で、合計四万八百三十七人と記録されている。しかし、多くの賃機業は、主人家族に加えて、二~三人の機織りさんを雇う例が一般的であり、全体では、六万人以上が織物業と直接関わり、ハレの日の「ゑびす講」が、織都桐生を支えた一端でもありました。
◇ 明治三十一年、本町三丁目一帯で、六十三戸を全焼する大火から、「禍いを転じて福となす」気概と気運の、「象徴と存在」として、全国三千五百社の「福の神」の「総本宮」として、古くから信仰篤い、摂津国鎮座「日本一社・西宮大神宮」の御分霊を、奉詔勧請となりました。
 蛭子大神さまの御分霊料三十円。信認金五十円。勧請諸費用併せて四百七十九円が総費用であるが、多くは、今西祐吉翁と石川只七翁の立替金で挙行されました。遷座に伴う大祭費は、余興の買相撲三十円を含め二百九十六円で、お札・お姿の頒布金と、講金・賽銭収入と寄附金で賄われました。
 三十五年は、二十六人の世話人が二円宛、計五十二円の立替金で挙行し、大祭(ゑびす講)総費用三百七十八円で、講金・賽銭・お札・お姿の頒布金、等々ほぼ同額の収入で賄われております。
 社殿造営の趣旨は、織都桐生の繁栄と、桐生織物の信用を磐石とする、シンボル的存在感の悲願から挙行されました。
 「西宮分社建設願」によれば、桐生町民四百人近い連名で、社殿造営費一千五百円余、継続祭祀費用金壱千余円を整えて実行されました。
 本殿・拝殿の材料費七百五十円。大工手間五百五十二円。本殿・拝殿屋根三百四十二円。石工一式二百二十円。左官一式四十五円。建具百円。他総計二千二百六十九円が社殿造営総費用であり、積立金千五百円は社殿の神厳恒久維持費とし、町民二百七十人の寄附金三千二百九十三円五十銭で賄われました。
 「桐生西宮大神宮」の分社理由は、いかにも織都桐生らしい。神社仏閣の存在は、意匠(デザイン)の考案と、進歩に多大な影響を与える。西陣織物の意匠優美な特色は、社寺の美術と文化や、賑わいから得られる発想と考案力が大きい。西宮桐生分社は、敢えて壮麗華美を極める社殿を造営し、機業にとっては、斬新な発想で、意匠考案力養成の一助となし、万余を越える商工業関係従事者には、業務に熱心精励の結果で、福徳財宝が得られる精神的存在感の、「教育手段と象徴」とし、その結果、卓越した熟練工の輩出が、桐生機業の躍進と、盛大に不可欠。としております。
 桐生西宮大神宮の信仰組織として、埼玉・栃木や県内遠方には、十人組で一人の代参講。桐生町内や近隣には、一人講を積極的に組織しました。代参者には、金色の恵比須大黒像を贈呈し。御神酒と折詰寿司の昼食を饗し、講員一同には供物と、御神札・御姿が分与されました。十年で講員全員が一巡する仕組みの、「西宮大神宮・桐生西宮講」を組織しての、恒久振興策としました。
 二回目の代参で御姿掛物が贈呈され。三回目は、ゑびす大黒の掛物。四回目に赤地錦福守が授与される恩典で、すべての福の神グッズが一巡するまで、四十年を要し、広範な信仰圏の構築と、安定した神社経営の継続策を実行した、先人の知恵に敬服します。
 講金収入から、遷座当初の明治三十四年に約千人。翌三十五年には、御神徳が理解されたのか約二千人の講員に倍増されました。
 福徳と家内安全を求める善男善女に、授与所での頒布にさいし、御神札(お札)を、「カボーサン・火防さん」。御神影札(おみえふだ・お姿)を「福の神」と呼んで、『火の用心の喚起』と『苦労は必ず報われる』、福の神のありがたみを、倍加納得させながら、頒布いたしました。
 御神苻頒布など、代参講は現在も継続され、埼玉県本庄市・深谷市方面など、まとめて二百躰・百五十躰の講中も存在しております。
 以上のごとく、古くから、西宮と福の神信仰が、生産性向上と生業繁盛。不撓不屈の精神要因として、重んじられておりました。
 神頼み的な福の神信仰を、不撓不屈の精神性にまで直結させる、先人の発想の豊かさに感服します。
 不撓不屈精神は、火災や未曾有な災禍から復興する逞しさばかりではなく、生業に直結させて、日々の暮らしに生かし発展させた、「ゑびす信仰」であります。現在も実践されておられる好例が、G家のゑびす講行事に見られます。
 高級丸帯機屋として高名な「G織物」では、社長自ら早朝に西宮参りをし、福の神セットの「御神札・御神影札」と、「お宝」を求めますが、自宅には、床の間に納まりきれない巨大な、「お宝」がすでに飾られております。
 G家では、家例としてのお宝作りが、主要な年中行事として、現在に受け継がれております。当主である社長が巨大な鯛を担当し、社員が大福帳・千両箱と、鈴成りの大判・小判と大当たり(的矢)。福徳升・カブ・サイコロ・巨大な松茸が手作りされます。材料のすべてが、社内で調達可能な織物関連資材からなり、着色も、染料の使用が特徴的です。 なぜに、これほど巨大な「お宝」作りが、現在に継承されているのでしょうか。理由は、社長と社員が、和気あいあいに、年に一度の「お宝作り」を体験しながら、不撓不屈の精神で、生業繁盛を「誓い、再確認する」、希有な家例であります。
 G家といえども「かつて『お宝』が買えない年もあった」。そのようにならないために、「家業を怠ってはいけない」。という「ご先祖の有り難い戒め」である。日頃は粗末にしがちな、「資材の節約」を無言のうちにも諭している。宝尽くしのなかで、異彩な巨大松茸は「子孫繁栄のシンボル」で、「カブは、野菜の蕪で株式の株を意味し、サイコロは博打(ばくち)の象徴である」。「株や賭け事に『手を染め』てはならない」。着色に「絵の具を用いず敢えて高価な染料としたのも、ご先祖が子孫に託した有り難い教訓」と、理解されております。
 織物は昔も今も、時代の最先端を行くファション産業であり、好不況の荒波の洗礼を受けやすい業態は、蛭子大神さまが、葦船に乗って大海原を漂い、暴風雨にも遭遇したであろう苦難の航海から、無事漂着されて、「福徳の神」として崇められた成立過程を熟知すれば、蛭子大神さまの神威と御神徳にあやかり、不撓不屈の精神を、「生業繁盛と、家門の隆盛に繁栄したい」心情も、得心できます。
 桐生地方では、「お宝は買うもの、福徳財宝は自分で稼ぎだすもの」と言われ、福の神・福徳を授けてくれる「縁起物」は「お宝」が定着していたが、近年は一般家庭で「お宝」。商店や粋筋など客商売関係で、「熊手」が好まれる傾向が続いていたが、最近は生業に係わらず「熊手」が主流になりつつあり、恵比寿講の風流(ふりゅう)性や民俗性からは、残念な傾向と言わざるを得ない。
 横山町の中島ツヤ(八八才)さん、勝行(六十)さん親子が桐生で唯一の「お宝屋」を営み、数人の売り子を擁して「自家製お宝」で、恵比寿講の風物詩として花を添えている。
 「お宝」は「枝物」、単に「エダ」と呼ばれ、符丁で『吊るし』と言い、恵比寿講終了とともに、近くの山から「朮萩・オケラハギ」。「山萩・ヤマハギ」とも呼ぶ『ナガバノコウヤボウキ』の刈り取りから始まり、ローソクの炎を用いて、細枝を「三又・五又の姿」に整えて『エダ』を作り、稲穂が稔って頭(こうべ)を垂れる如くに、各種の縁起物を吊り下げる。
 頭(かしら・枝先)から順に、【鯛・たい】は御目出たいで、魔除けの【黒招き猫】で福を招いて、【枡・ます】は、ますます繁盛。【提灯・ちょうちん】で、家の中と世の中を明るく照らし。【的矢・まとや】は大当たり。【小槌・こづち】で運を振り出し。【福ダルマ】の七転び八起きの結果、【大判】が成り下がって、【千両箱】一杯に稼いで、儲けは【大福帳】にしっかり記帳する。商売繁盛・家内安全・交通安全の【縁起札】で念を押し、要部には多数の【小判】で構成されている。それぞれが、彩りに配慮したサクラの【花飾り】と、リリアンのフレンジで華やかさを強調し、ハギを整形した三本・五本又の「枝」から、稲穂の如く謙虚に成り下がる。
 以上が基本であるが、時代を反映したり、お客さまの要望や好みを先取りした、アイデア品の出入りや追加でオリジナリティーある、願望成就の兆しが成り下がる「お宝」となる。
 桐生らしさの「お宝」は、エダに成り下がる各種の縁起物に、一攫千金を意識したり象徴するモノは付かない。地道な努力で着実に稼ぐ張り合いや、兆しを意識させる象徴でまとまっている。
 枝と呼ぶハギは、高野箒に利用されたほど強靱で、枝持ち(強度が有る)と素性の良さから伝統的に用いられたが、現在は入手難からプラスチック製が主流となり、売値一~二万円の大物は、竹を割ったエダにエナメル塗りで製作される。お宝は一年間飾る縁起物であり、関西の笹飾りでは葉が枯れてしまうため、桐生では好まれない。
 お客の要望と縁起担ぎは多彩である。ダルマは転んでも怪我しないと好まれ、手も足も出ないからと、ダルマなしが好まれたり、特徴の黒招き猫は、クロネコブームで飛ぶように売れても、色彩から嫌われ白招きが好まれたり、家計簿や商売が黒字になる兆しの招き猫、とリクエストされ、株式ブームでは蕪の成ったお宝が好まれた。
 桐生での「熊手」は符丁でデグマと呼び、一部の建設業や粋筋に好まれ、明治二十四年に、寂光院に分霊された大鷲宮(おとりさま)の出開帳で求められ、恵比寿講で売り出されたのは昭和二十年代後半からで、五十年代から目立つようになった。
 参道の要所に、存在感ある巨大な櫓(足場)を架けて、華やかにディスプレーし、売り子の粋な容姿と、派手な景気付けパフォーマンスから主流に見える現在でも、熊手屋は五軒で、お宝屋は桐生の中島家を始めとして、東京・佐野・足利・前橋方面から二十五軒が出ている。
 最近の傾向に、景気付けとして賑やかな三本締めが好まれているが、勘違いされて「締め」を求める方も多く見受ける。一万五千円のお宝・熊手を、言い値一万円であっても、互いの駆け引きで値引いて、気分良く八千円で交渉成立した場合でも、一万円出して二千円を御祝儀にして締めるのが粋な旦那となる。
 三本締めは江戸締めであって、桐生の締めは、十(とう)締めが伝統である。契約書を書かないお座敷における織物取引・商談から始まっている。十(とう)締めは、三・三・三・チョンで構成され、三を三回で九となり、チョンを加えると「丸」となる。つまり「丸く納・収める」意味と意義が存在する。
 「高砂」の「翁・おきな」の採り物である熊手は、空間を浄(きよめ)て神霊と魂を集める機能をもった神具から来ているが、社名や屋号が、板招きに縁起(体裁)良く記される機能と形態から、確かな宣伝効果と存在誇示・招福機能と粋なデザイン性、大きくかき寄せて、大きく儲ける縁起と理解されている。
 大鷲宮(おとりさま)の本社である東京下谷の、鷲神社の酉の市の状況は、守貞謾稿に
前略 熊手ヲ買フ者ハ、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居に係ル業躰ノ者等ノミ
買之。一年中、天井下ニ架シテ、其大ナルヲ好トス。正業ノ家ニ置之事ヲ稀トス。 中略
 熊手は 家業繁昌之兆トス。中略 青竹製ノサラヒニ、宝船、米俵、金箱、包金、
的矢、シメナワ、於福假面、玉莖、戎大黒土像、鶴亀等ノ類ヲ付ル。後略。
 大判小判が風に揺れて、お宝が発する心地よい響きと、宝尽くしのトンネルを潜っての福参りこそ、桐生ゑびす講の実感と郷愁である。しかし、庶民の要望からの縁起物の自然な変容こそ、エビス神の庶民性と御神徳の多様性が伺え、大衆に支持されるエビス信仰の本意でもありましょう。参拝者の求めに応じ、あるいは求めを先取りした提案からの変容であります。
 神棚の有無やインテリア性を含めた、生活空間に相応しい感性が、時代によっては「お宝」であり、現在は「熊手」が醸す色彩と形態・デザインが、大衆の感覚と感性から好まれる結果でありましょう。
 福の神の象徴としての「お姿・御神影札」は、現在では考えられない程の変容の歴史があり、西宮本社や関西辺では「福笹」を始めとして、「吉兆・きっちょう」と呼ばれる「熊手・さらえ」や「福箕」が、縁起物として親しまれております。正月十日の一大祭事「十日戎」で、定番の景気よい掛け声「商売繁盛笹もってこい」は、神社から授与される「福笹」で、起源は江戸時代頃とされ、参拝者が境内の「吉兆店」で求めた「生笹」に、別の「吉兆店」で小判や米俵など様ざまな「縁起物(小宝)」を付けてもらいました。戦後は、空襲で被災した社殿復興策から、奉賛会がクジ引きの賞品として短冊をつけた笹が用いられ、社殿復興なった昭和三十八年からは、紙製の笹に御札や福袋をつけて、神社からの授与品となっている。現在は笹だけでなく「福さらえ」と呼ばれる「熊手」や「福箕」の『吉兆』が、「海・山・里・商の幸」を満載して招福機能を象徴しております。
         ◇
上毛新聞、昭和十一年十一月十九日付には、
桐生恵比壽講に   お寶屋百軒
       街飾り準備で徹夜
    きりふ にし みやじんじゃ たいさい りょうじつしつ
関東一社桐生西ノ宮神社の大祭は、十九、廿両日執行
  どう え び す こう じやう にぎは
され、この二日間は同地方の恵比壽講として非常な賑
  てい にし みやじんじやけい たからや
ひを呈するが、西ノ宮神社境内に店を出すお寳屋さん
 やく けん もちろん よこはま ごえ せうにん
は約百軒、縣内は勿論東京、横濱、川越あたりの商人
  ねん かせ ぞく こ
が一年分の稼ぎをするため、十八日續々と入り込んだ。
せうか たから さう なみ せん
消化される?お寳十五万本といふ豫想で、並物十銭は
  りう もの えん りう りう よ
十万両。中物一圓は百万両。上物五圓は五百万両の呼
 ね けん あきな
び値で、一軒 圓以上の商ひが出来る。
 きりふ めい たからや みや や え なりこと き た
 桐生市で有名のお寳屋は、宮本町八重成事三井喜太
     ふうふ ねん つく めう さん
郎(五五)夫婦は一年間二万本を作り、今明日で決算
   てつや じゅんび きりふ いん こう そのた
すべく徹夜の準備だ。なほ桐生署員總出勤で交通其他
  しま
の取締りを行ふ。(冩眞はお寶屋さんと街頭の飾り)
と、大きく報じている。
         ◇
 「共存共栄」「損して得とれ」の精神は、現在にも通じる、商売繁盛の伝統的な極意であります。多くの「機屋・はたや」が、ゑびす講の日に、関係する下職(外注)を招いて、恵比須講の宴席を設け、一門の商売繁盛を再確認し、従業員には、ゑびす講料理や小遣いを特別支給して、「福の神参り」を積極的に奨励しました。
 これは、現在にも受け継がれ、織物関係ばかりではなく、商店や一般企業でも、新券による「お小遣い」の特別支給や、ゑびす講料理。給料もゑびす講前に支給されている例が多く、桐生市役所でも、諸業の発展と活性策の一助のためか、民間に倣い、伝統的に繰上振込されております。
 予期せぬお小遣いにパート勤めの人なども、「お札(御神札・おふだ)が買えるのがありがたい」。「家には神棚が無いけど、お姿(御神影札・おみえふだ)を目立つ所に貼っておくと、見るたびに励みになるんだよね」。
 神棚を祀らない新家庭が多くなった現在でも、福の神のお姿「御神影札」を、気楽にインテリアとして貼り下げ、ピンナップしたお札「御神札」を眼にすることで、日々の仕事の励みに活用されている実態は、庶民信仰として圧倒的な人気であり、人びとの生活に深く浸透している現実こそ、生産性を意識した主人・経営者の、あきらかな作戦勝ちで、古くから産業経済が発達した桐生の、特徴的なゑびす講習俗であります。
 各地の祭礼や、縁日に精通している露店商が、「境内から参道をあふれ、町中の商店街を越えて、駅まで露店が並ぶ桐生のゑびす講は最高だよ」。「ゑびす様から遠く離れた商店でも、ゑびす講大売出しをしているもの、街をあげてのゑびす講は余所にはないよ」。「露店の数ではもっと多い所もあるけど、桐生は雰囲気がいい、露店の並び方が違うんだよ、祭り情緒って言うんかい、これだけ連なる露店の中を歩きながら、祭りの雰囲気が自然に高まって、『お宝屋』のきらびやかな、大判小判の宝尽くしの中を押されるように坂を登ると、参道の階段で、福参り出来る順番待ちの大混雑がいいね、簡単にはお参り出来ないのがいいよ最高だよ」。「幸運なんて、そうそう手に入らないもんだよ、それを判らせるように、じっと順番待ちさせているんだよ、皆んなわかっているから行儀良く並んでいるんだがね」。「桐生はなんてったって粋だよ、着ているモノが違うし、着道楽ってのは本当だね」。「どこから集まって来るんだろう、若者が多いね、それにファッションがいいよ、渋谷新宿から抜け出て来るんかねえ」。「厚底靴のヤングが、こんなに集まって来る祭りや縁日は、他にはないねぇ、どんな恰好してても、福参りってのは欠かせないんだねぇ」。「桐生では旦那って言うんかい、社員を引き連れた社長の、お宝の持ち方が絵になるね」。「登り参道階段の賑わいこそ、あれはまさに関東一だよ」。
 境内の掛小屋には、芝居一座と、プロ歌手による歌謡ショー。神楽殿では里神楽。拝殿近くに、各種のお宮と神棚用品。こよみ・カレンダーに招き猫。子供の眼を惹くゲームや玩具の露店がおよそ五十。参道要所は、手締めも賑やかなお宝・熊手の縁起物。両翼の参道沿いには、枡・桶・カゴに生活雑貨と農工具。植木盆栽・時季の花。長いゑびす通りは、焼きそば・イカ焼き・焼き饅頭が香ばしく漂い、七味唐がらしの軽妙な売り声。ガングロのコギャルが囲む十重二十重の奥には、ヒットを続けるチンチン焼き。テント張りの居酒屋からは、景気回復したかのような、陽気で豪快な会話。好例の振る舞い酒の試飲所は、枡酒片手の人だかり。清酒メーカーの損して得とれ策か、市内の居酒屋で眼にする、看板が描かれた薦被りが何段も積み上げられている。冬物衣料品をはじめとして、ありとあらゆる、エビス顔の露店がひしめき、その数六百余は、商店街から駅周辺まであふれる。 狭く長い参道は、商売繁盛・生業繁栄と、家内安全を願う、二十数万人に達する善男善女の人の波。特に混み合う参道拝殿前の階段では、警察官の適切な参拝規制が施かれて、安全で整然とした参拝が行われます。
 お参りを済ませて、御神札頒布所で求めた、「福の神セット」と「お宝・熊手」を抱えて、エビス顔した善男善女の、熱気と福があふれる情景では、不景気風も近寄れない。
 「桐生ゑびす講は、関東一の賑わいと祭礼情緒が堪能できる」。と、絶賛される背景は、全市あげての協力のおかげでございます。商工業はもとより、諸業の振興策によるところ大であり、関係機関の全面協力と、神社側の伝統的な祭礼方針で、盛大な賑わいが構築されております。
 警察・消防・プロパンガス危険物関係・関係各町内会・学校・PTA・路線バス・清掃・電気・商店街・街商組合(露店商)など、各関係機関が緊密に連係されて、一大祭典が執り行われております。
 ゑびす講の、賑わいの状況と関係機関の連係は、かつての新聞報道が的確に伝えている。
        ◇
 上毛新聞、大正十三年十一月十七日付に、
 惠比壽講宵祭  桐生の賑はひ
きりふ え び す こう よいまつり なんねん めずら かうてんき
桐生の惠比壽講の宵祭は何年にもない珍しい好天氣に
つ かぜ ふ きんごうきんざい しょこうちやう
付きものゝ風一つ吹かないので近郷近在からは諸講中
 の かくほうめん のりあひじ どうしや りんじ うんてん きやく まんさい
が乗り込み各方面の乗合自動車は臨時運轉に客を満載
 き ご ご ごろ けいだい ひと お かへ ほど こん
し来たり午後四時頃からは境内は人が押し返す程の混
ざつ み せ ものこ や まんいん ありさま ちんれつ
雑で見世物小屋の満員の有様、色とりゞゝに陳列され
 かくご ふくてん え び す ぎ あつ わか ふ じん しなえら
た各呉服店の恵比壽布れに集まる若い婦人の品選びに
てんいん て こ まい はんぜう さかなや みせ あさし こ こ たひ
店員はテン手古舞の繁成、魚屋の店は朝仕込んだ小鯛
 た こ と やう う うおいちば よ いち ひら い
や章魚が飛ぶ様に賣れて魚市場では夜市を開くと云ふ
けいき にち あさかた きんもつ かぜ ふ くは だい
景氣 十六日も朝方は禁物の風が吹かぬに加へて第三
にちよう はん けうげふ ぜんじつ ま ひとで
日曜で一般が休業のため前日に増しての人出であった
        ◇
 上毛新聞、大正十五年十一月二十三日付
 けふあす二日に亘る 桐生惠比壽講
    豫想される其の雑踏 桐生署で嚴重取締
こんみやうりゃうじつおこな くわんとう めいぶつきりふ にし じんじゃ え ひ
今明の兩日行はれる関東の名物桐生西の宮神社の惠比
す かう き ほう ごと にしじやうしう た た すう かうちう さん
壽講は既報の如く西上州のその他から多數の講中が參
けい てつどうしやう きゃくしゃ れんけつ そな
詣するので鐡道省などでも客車の連結をしてこれに備
  はず ぜうけう よ さう かた え ひ す かう
へる筈でその状況は豫想に難くないがこの惠比壽講の
まへ おこな ・・あらかわはしおよひしないかくしんせつどうろ かいつうしき
前に行はれた新川橋及市内各新設道路の開通式は二十
にちあらかはけいはん しきじやう せいだい おこ え ひ す かう
日新川橋畔の式場で盛大に行はれたがこれと惠比壽講
  め あて かくほうめん た すう い こ
とを目當に各方面からスリが多數に入り込んで二十一
にち よきやう す まうけんぶつ おおま ま まちきりはら ばん
日餘興の相撲見物をしてゐた大間々町桐原一六三〇番
ち す とうますた ろう ひだり たもと き さいはひ なにもの
地須東盆太郎(三〇)は左の袂を切られたが幸に何物
 ぬす なほどうよ ご ご じ ともうてう ぎ だいいふ
も盗まれなかったが尚同夜午後七時ごろ巴町で義太夫
 たちき しないしんしゆくおかた たもと き
を立聞きしてゐた市内新宿岡田はな(二六)も袂を切
   えん せん   た ひ がい
られ二圓三十銭をスラれたその他にも二三の被害はあ
  も やう きりふ しよ にちし ない やすやど もくちん
った模様なので桐生署では二十二日市内の安宿や木賃
  とま きやく せい とりしら
ホテルの泊り客を一齊に取調べた
         ◇
*余談ながら、以上の記事につづいて桐中(現桐高)が野球部創始以来始めて前中(現前高)を倒した。と試合経過が詳述されている。
         ◇
 上毛新聞、大正十五年十一月二十五日付
 三万五千を突破した  参拝善男女
   二十四日の桐生惠比壽講  萬引も二三件あった
りやうまうちほうねんちやうこうじ い きりふ にしみや え
兩毛地方年中行事の一つと云はれてゐる桐生西宮の惠
び す かう き ほう ごと りやうじつおこ ねんねんさん
比壽講は既報の如く二十三四の兩日行はれた、年々參
けいきゃく ぞうか ほんねん りやうまう とうぶとも きやくしや ぞうれん
詣客が増加するので本年は兩毛東武共に客車の増連を
おこ ざつとう くわんわ た かくほうめん じ どうしゃ り よう
行つて雑踏を緩和しその他各方面からは自動車を利用
  もの にち じゅくじつ さうとう
する者などで二十三日は祝日にも相當しおびたヾしい
ひとで ご ご じ まちどほ じ どうしやに ばしや わうふく
人出で午後二時には本町道りは自動車荷馬車の往復を
と よ はい そう ひとで けいさつくわん もちろんせうぼうくみいん
止め夜に入っては一層の人出で警察官は勿論消防組員
せいねんくわいいんとう こうつう せいり おこ どうこうえん ひろば すう
青年會員等が交通の整理を行ひ同公園の廣場は數千の
ひと い せ さきこ まものしやうくみあひほうけん し かけはなび う あ
人が伊勢崎小間物商組合奉献の仕掛花火の打ち揚げを
けんぶつ お ひとなみ じ すう はつ うちあ
見物するため押しかへされぬ人波で九時數百發の打揚
  くわんこ こえ めづら む ふう こうし あら
げに歓呼の聲を浴せかけ珍しい無風に紅紫を現はした、
え び す まちどほ・・ けいだい たからう た ろ てん
惠比壽町道りから境内へかけてお寳賣りその他の露店
 ちょっと すき なら きゃく よ ほんまちとほ・・ かくしやうてん
は一寸の隙もなく並ばつて客を呼び本町道りの各商店
  せい おほうりだ けいき そ   か や はん
は一齊に大賣出しを行つて景氣を添へ廿四日は夜半一
じ ころ わ ばん ふだ う ふく さづ
時頃から我れこそ一番のお札を受けて福を授からうと
 さんけいきやく さつとう ぜんじつ おと ひとで み   わり
の參詣客が殺到し前日に劣らぬ人出を見せたがその割
あひ じ こ すくな や の ご ふく え び す ばいてん
合に事故は少く矢野呉服の惠比壽ぎれ賣店で一二の万
ひき あ す か さんけいきやく む やく
引が有つたに過ぎない二十四日の參詣客は無隘三万五
  とつぱ い
千を突破したと云はれてゐる
         ◇
 ゑびす神の御神徳を支えに、日々の生業に励み、桐生の礎(いしずえ)を築いた先人が、確かな御神徳と、生業繁栄の象徴として、蛭子大神さまの御分霊を、奉詔鎮祭して以来、平成十二年(二〇〇〇年)は、記念すべき遷宮一〇〇周年です。この間、先人から厳に、戒められて来た祭礼姿勢は、伝統の温存と、「共存共栄・損して得とれ」に尽きると、自負しております。
 桐生西宮神社の基本姿勢は、「福を振る舞う」ことであります。御神札(おふだ)を生業の精神的なよりどころとし。日々の仕事の励みのため、福の神の象徴として、御神影札(おみえふだ・お姿)を、求める善男善女には、惜しげなく振る舞い。神社は儲けないで参拝者と業者に儲けていただくことが基本です。
 このことは、桐生の商店と、露天商が扱えるモノは頒布販売しない方針を、伝統として現在も踏襲しております。福の神としての、「御神札と御神影札」セットのみが、神社の専売頒布であって、絵馬や破魔矢・お宝・熊手類は専門業者に任せて、業者にも、福の神の恩恵を享受して頂きたい。神社の扱い品として、常識的な絵馬も、「業者が参入可能であり、かつては、絵馬屋という商売が桐生にもあった」。「今でも余所の縁日には絵馬屋が出ている」。福を求める参拝者と、商店・業者の恵比須顔のみが、神社の存在価値となり得る。先人からの厳命です。
 桐生のエビス信仰は、地域性を反映して特異な発展をしましたが、「商売繁盛」こそ、エビス神の本務の一つであります。商店、ことに商店街にどれほどの恩恵がもたらされているのでしょうか、神社の姿勢は共存共栄を願う「ゑびす講祭礼」の挙行であります。二日間で二十四~五万人の参拝者は、言い換えれば、商店がそれだけの入り込み客を、「お客様」として迎えて商店街が潤うことで共存共栄となる。ゑびす講に限らず都市型祭礼の挙行は、商店が潤うことで「祭禮・さいれい」に値する。通過客が目立つ現状は、消費者の購買意欲をそそる企画(商魂)が必要と思える。
 地元紙「桐生タイムス」から、先人の英知と手法を省みることも無駄ではあるまい。図書館で収蔵する最古は昭和二十五年からで、戦後の混乱・復興期に鞭打つ台風の襲来は、二十二、三、四年と連続し、言語に絶する大打撃となり、桐生は関東で一番不景気な街。と酷評された年の恵比寿講関連記事は、
         ◇
 昭和二十五年十一月十九日付
  お寒いエビス講  不況乍ら市内はにぎわう
けふと明日エビス講祭だがお天氣具合はどうだらう中
央氣象台の發表では十八日は朝の内はまだ雨が殘るが
午後から曇となる寒さは平年並との事だから桐生への
人出は果してどうか汽車電車バスは臨時に増はつされ
るし商店連盟では鬼怒川招待や二重景品付きで大賣出
しを行ひ人氣を博しているから不景氣ながら相當のに
きわいをみる事だろう
         ◇
 昭和二十五年十一月二十一日付
  快晴に惠まれ  人出十數萬
    まずは目出度しエビス講
十九日から二十日にかけた桐生のエビス講祭は思いが
けなくも快晴にめぐまれ全市到るところ人の波で大に
ぎわいを呈した近郷近在からの人出十數萬人を數えら
れ發着する汽車、電車バスは超満員。岡公園内には迷
子が多く、西宮社務所の係員は親を探すのにひと苦勞、
夕方から夜にかけては公園一帯からえびす通りは人を
もつて埋まるの盛況をみた。商連ではおはやし組を作
って假装舞台を出動させ本町大通りを練つて景氣を添
え岸田會長以下役員総出動で、これもお巡りさんに協
力の意味でくり出した市内ボーイスカウトに交つて交
通整理に一役買い事故を未然に防いだ。
 中略 さて一方商店の景氣はというと八百屋と
魚屋と肉屋さんが一番忙しく次いでは輕飲食店だが収
入は忙しい割には上らなかつたという。お寳類の賣行
きは十圓二十圓の安物には羽が生えたように賣れてし
まうが大物になると客足がぐっと遠くなる。
昔に變らぬのは縁起かつぎで大通りに出張った占師
にそつと手の相を見てもらう人々も可成り多かった。
西宮神社参道の両側に陣取つたお寳屋さんの店は昨年
の二倍の四十件、値段は最低十圓最高千五百圓の品が
ぶら下がっていたが大体の賣行は百圓から百五十圓ど
ころが買われ商人に聞くと去年の六割止り之れでは商
買にならんとこぼしていた。
 神社のおさい錢箱は人出の割に少く出て來たのは百
圓札が十三枚、後は五十錢一圓札が大部分、十圓札も
數える位だ、居並ぶ氏子連いささかアテが外れた顔。
  記者と思われる似顔絵入りの関連記事に
今年のエビス様の景氣はどうだろうと二十日の朝情勢
偵察をやってみた。まず氣になるのはおサイ錢箱の中
味であるが十九日晩の成績では五十錢、一円の札が斷
然多くこれはとても勘定がしきれない。百円札が何と
十三枚。この不景氣にこういう氣前のいいオツさんが
十三名も居るところを見ると誠にたのもしい 以下略
         ◇
昭和二十六年十一月八日付
 近ずいたοえびす講祭  手具すね引く商店街
   不況下・前奏曲は相當賑かだ
そろそろ各地でえびす講祭の準備が始められた、昔関
東一を誇り縣内は勿論遠く京濱方面から多數の參詣者
を迎へ岡公園西の宮を中心に全市ごつた返した程の桐
生えびす講、今年の前奏曲はどうだろう 中略
如何にせん此の金詰りではどうにもならぬと少からず
悲鳴をあげているものは獨り商人のみではない大衆の
ふところは秋風のそれに似て頗る寒い購買心をそゝる
品物は山と積まれても手が出せない。こんなわけで今
年も餘り賑はないらしいが目抜きの商店街ではそれで
も師走を控えこゝを先途とあの手此の手で大賣出しを
やらうと企畫を進めている。今回は町内別でなく商店
連盟がタッチし打つて一丸となりよい品を安く顧客に
サービスしようと意氣込みは凄い程である、期間は來
る十七日から二十日まで四日間、之れに對して商工會
議所や市當局も不況ばん回の一助に補助金を支出しよ
うと相談している。 後略。
         ◇
昭和二十六年十一月十五日付
   えびす講祭り迫る  全市擧げ多彩な催し
      呼び物は北関東チンドンヤ大会
桐生のえびす講祭は十九日二十の両日関東一社岡公園
内の西宮神社を中心に嚴肅盛大に執行されるが之を機
に商店連盟商業協同組合では協賛福引大賣出しを行う。
期間は十七日から二十まで四日間で買物百円につき一
本の福引きを進呈之れに當れば水上温泉一泊招待又は
錦町雷電神社境内で興行の柿沼サーカスえの無料入場
劵を進呈する。岡公園西の宮神社境内では十九、二十
の両日勝川叉之丞の演劇がある。外終日太々神楽を奉
納する。又た花火の打あげがあり十九日は西小校で角
力大会の催し。市内にはチンドン屋が三十餘組全市を
練り歩く事になつている又両日とも東武自動車では臨
時運轉を行つて参詣者の便を圖る 以下略
         ◇
昭和二十六年十一月二十日付
   天候に惠まれ 大當りのエビス講
        人出ざつと十余萬
関東一社桐生西の宮神社ゑびす講祭は十九日二十日に
かけて盛大に執り行はれたが例年降雨をみるのに本年
は雨がなく十九日は風もなくポカポカ暖かさを感じた
位、従って朝來近郷近在からの人出が多く列車、電車
バスなどから吐き出される人の群ざつと十萬、夕刻か
ら夜にかけては全市ごつた返しの大にぎわひであつた。
商店街はきらびやかに店頭を飾り立て福引き大賣出し
も鳴物入りで客をよび不景氣ながらもぼつぼつ賣行き
をみせていた、餘興の先陣を承つたチンドンヤ大會は
さすがお手のもの至るところで人氣をさらつたが、此
の大会に目をつけた商店では早速自店宣傳に之を利用
した。 中略 ゑびす通りの両例を埋めた
縁起物を賣る露店その他の賣行きも思つたより悪くは
なかつたとはめでたし。
 元矢野デパートでは菓子展即賣會が催され相当人氣
をあつめてここも相當の賣行き。錦町雷電様境内には
柿沼サーカスが乗り込んでの興行。各映畫館でも客引
きに大わらはだつた。
         ◇
 自前の掛小屋では、かつては、歌舞伎や芝居と演芸ショー。現在は、時代に即した芝居上演と、プロ歌手による歌謡ショー。神楽殿の奉納神楽はもとより、す
べてが自由参観で楽しんでいただいております。
娯楽の少なかった時代は、これらの余興が大きな呼
び物で、福の神の恩恵として期待されておりました。
振る舞うことは失費も大きく、掛け小屋と、全体的な
電気関係の設置経費だけでも数百万円に達します。
         ◇
  桐生機織り / 後ろから見れば
  ヒョットコ踊りの / 真似をする
         ◇
 飄逸な機織唄に、機織娘(織姫)の心情と、現場の情景が眼に浮かびます。琥珀(こはく)が織れて一人前とされた手機(てばた)織機の時代、織上手の織娘が織り上げた琥珀帯は二尺立つ、と言われました。琥珀織物は、絹目を締めるため、筬(おさ)の二度打ちが必要で、仕事の間(ま・リズム)をとるため、杼(ひ・シャトル)を持つ片手が、自然と横に伸び、両手の動きを後ろから眺めると、ヒョットコの、軽妙な踊り所作に見える状況から、機織唄として歌われました。
 辛苦に耐えながらも、少ない物日(ものび、ゑびす講などの祭礼休日)を心待ちに、眠気を醒ましながら、自らを励まし、唄を歌って、みごとなまでの高級絹織物を織り上げることが出来たのも、心浮き立ちながら観た、神楽の道化舞いを、仕事唄に採り入れたもので、ゑびす講に、小遣いを与えて、福の神参りを奨励した旦那衆の、損して得とれ精神であります。
         ◇
  機織り娘と / 馬鹿にはするな
  大和錦(やまとにしき)は / 誰が織る
         ◇
 織姫の多くは、親の前借金の年季奉公で、過酷な労働条件下、卑下されながらも、織都桐生を影で支えた技術者としての、健気(けなげ)な心情に心打たれます。
         ◇
 共存共栄の範と、直系分社・関東一社としての自覚の一例は、平成七年一月十七日早暁、突如として発生した、阪神淡路大震災は、西宮本社も未曾有な災禍を被りました。これの復興にあたり、桐生西宮神社では、一千百六十余万円の復興奉賛金を奉献させていただきました。この額は、結果として全国一位であります。直系分社と、関東一社の冠をいただく自覚がもたらした、偶然な結果ですが、先人からの教えである共存共栄と、「災いを転じて福となす」気概と、気運を原点とする、桐生西宮神社の社歴がもたらした、奇縁であろうと思います。
 「ゑびす講」の、神賑わい的祭礼情緒として、重要な要素は六百を越す露店であり、これを取りまとめる、「桐生街商組合」は、数人の組織でありますが、神社とは別に、自発的に二十万円を奉賛寄付しております。この額は、全国的に決して少額ではなく、むしろ上位の奉賛であることを銘記させていただきます。
         ◇
・蛭子大神さまが福徳財宝の神。

いつの時代にあっても、二十二世紀の代も、蛭子大神さまが、福の神の本流として、また、日本人の心のより所としても、親しまれ続けていただきたい。
 人が人として、もっとも尊いことは、思いやる心。労(いたわ)る心。尊び敬う心であります。障害者や弱い立場の人に、思いやりと、労りの行為を、福祉や介護を枕詞(まくらことば)として、ボランティアからノーマライゼーションの名のもとに、意識改革の重要性とともに、「美徳」的とらえ方が、最近の傾向でもありますが、福の神・ゑびす信仰の原点こそ、今日的課題として、先人が、「福の神」に名を変えて、現代人に託した尊い教えでもあります。
 蛭子大神さまが神格を得て、福の神の本流としての成立過程は、多くの庶民層による、労りと思いやりの善行行為そのものであります。
 蛭子大神さまは、父神を、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」。母神を、「伊耶那美命・いざなみのみこと(以下父神・母神)」二神(ふたはしら)の御子で、長子とも初子。あるいは第三子ともされております。
 『古事記』で、両父母神の神婚の条(くだり)に、天の御柱(あめのみはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を建てて神婚生活に入ることになり、父神が
     あなたのからだ どのようにできていますか
母神に、「汝が身はいかに成れる」と尋ねると、母神
 わたくしのからだな で き あ がって で き た り ない いっかしょ ます
は「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」
           わたしのからだ で き あ がって で き すぎ
と答え、父神も続けて「我が身は成り成りて、成り余
た ところが いっかしょ あります そ こ で わたしの からだ のでき す ぎ た
れるところ一処ある」。故この「吾が身の成り余れる
   あなたの からだ の でききらないかれところ に さ し て く に をう
処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土生み
だ そ う な う が どうでしょう それふたが よいでしょう
なさむと思ふはいかに」。母神も「しか善けむ」。
それでは わたし あなたが ふとい み え めぐ
父神が「然らば吾と汝と、この天の御柱を行き廻り
あ っ け つ こ わ ん な しましょう やくそくして
逢ひて、美斗の麻具波比せむ」と期りて  つまり、
    み と ま ぐ は ひ ちぎ
互いが、天の御柱を左右から廻り、出逢った場所で契
りを結ぶことに決め、父神が御柱の左より廻り、母神
          まあ な ん と すてきな お と こ よ かん
が右から廻りながら「あなにやし、えおとこを」と言
どうし も かんどうしながら すばらしい おとめ よ
い、続いて父神が「あなにやし、え娘子を」と言いま
                   じょせいからさきに
した。しかし言い終わったあと、父神が、「女人先だ
いいよること は(ふしょう ふずい の ことわり に はんして ふさわしくない) おみな
ち言へるはふさはず」と告げたが、そのまま契りを結
       み こ
んで、生まれた御子が「水蛭子・ひるこ」であります。
 『日本書紀』に、この御子は、「三年たっても足腰が立たない」手足が萎(な)えた、骨なしの蛭(ひる)のような形をした、生まれながらの障害児としております。
 また、「ヒルコ」については、天照大神(あまてらすおおみかみ)の別称、大日霎尊(おおひるめのみこと)の「日女・ヒルメ」に対する、日(陽)神を顕わす「日子・ヒルコ・彦・ヒコ」説で、男性太陽神説。
 さらには、養蚕県と、絹織物産地である桐生人として嬉しい説は、ヒル神信仰説も紹介したい。お蚕(かいこ)は、生まれ変わって(繭に)形を変えて、人びとに利益をもたらす有益な、「蛹・蚕・蛾(さなぎ・かいこ・が)を「ヒル」とも呼び、神格を与えたヒル神信仰の片鱗説。
 尊い御子を、方舟(はこぶね)に入れて流す神話は、他民族にも多く、可愛い我が子を苦難の旅に出したり、千尋の谷に突き落とす動物の話もあります。
 神道で、御璽(みしるし)を納め奉る、最も重要な器(うつわ)が、御船代(みふなしろ)であり、水蛭子が尊い御子だからこそ、「船」に乗せる祭祀とも考えられます。
 記紀神話では、日本の国生みにあたって国土とは認めがたい失敗児、統治者資格を欠く障害児として位置づけられており、『古事記』では「葦船・あしぶね」。   木予象
 『日本書紀』は、「天磐櫞樟船・あめのいわくすぶね」に乗せて流し捨てられたとしております。みず ながれ はな す
    (流の順に放ち棄つ)ともかく、流された水蛭子(ひるこ)は、大海原(おおうなばら)を漂流し、艱難辛苦の果てに、摂津国(せっつのくに・兵庫県)西宮の浦に無事漂着されました。西宮市の心優しい先人は、流れ着いた水蛭子を、「蛭子神・ひるこのかみ」として養い奉じ、「夷三郎大明神・えびすさぶろうだいみょうじん」として崇(あが)め、西宮夷神社(現在の西宮神社)を創建しました。
 想像を絶する精神力と、生きるための、懸命な努力に対して、驚嘆から畏敬(いけい)の「神格」は、同情や哀れみを超越した「人としての優しさと思いやり」の、自然な行為が、「尊びと敬う心」からの祭祀となりました。
 「エビス」は、蛭子・夷・戎・恵比須・恵比寿などと表意されているが、「エビス」そのものは、異邦人を意味する言葉であって、異郷から来臨して、人間に幸(さち)をもたらす、客神(まろうどしん)であります。
 福徳財宝とともに、異文化と新技術をもたらす、異郷からの賓客(まろうど)の接点は、山の中ではなく、未知の世界へと続く、海岸がふさわしい。鯨やイルカなどに追われて、魚群が海浜近くに現れる現象を、漁民の眼には、鯨やイルカが、大漁をもたらす霊力ある神として、畏敬からか「エビス」と呼ぶ魚村も多い。大漁・豊漁の兆しを、忌詞(いみことば)としての呼称から、「エビス」と呼んだものと思われる。漁網の中央を表示する浮標(うき)を、「恵比寿網端(えびすあば)」。もしくは「恵比寿」とも呼んだりする。また、目隠しをした若者が、海中から無作為に拾い上げた石を、「恵比須石」として、豊漁守護の御神躰としたり、奇異奇怪な形状の石を御神躰として、豊漁をもたらす神霊の璽(しるし)とする信仰は、各地に多く存在します。
 福の神・恵比須信仰は、当初、豊漁や航海安全の守護神としての信仰から、それを商う市(いち)・市場の神として祀られました。
 「市神・いちがみ」としての勧請嚆矢(こうし)は、西暦六百年、聖徳太子が、四天王寺建立にあたり、西方守護と「市場」鎮護の神として、西宮夷神社を勧請されたのが、現在の、大阪市浪速区恵比須町の今宮戎神社であります。
 他にも、奈良・東大寺八幡宮の「夷」と「三郎殿」の二神。京都・石清水八幡宮の「夷宮」。京都・北野天満宮の「夷社」。京都・八坂神社の末社「蛭子社」。近江坂本・日吉神社の上中下各七社のそれぞれに「戎神」「夷宮」「三郎殿」。鎌倉・鶴岡八幡宮には、西門脇に「三郎大明神」など、著名有力社寺が「エビス神」を祭祀している。
 全国の神社を総括した神祇伯は、度々西宮に下向しました。また、鎌倉期における、稀代の傑僧として知られる、真言律宗の開祖叡尊や、時宗の一遍上人など、貴族や高僧も、エビス神の御神徳を慕って、参拝しております。
 海上交通・航海安全の守護神としては、臨済宗の祖、栄西禅師が入宋留学敢行の船中に、「夷子像」を祀って暴風雨の難から逃れ、京都・建仁寺建立にあたり、真っ先に、「恵美須神社」を鎮守として祭祀しております。
 神号としての「エビス」は、平安期の「伊呂波字類抄」に初見でき、「夷・エビス・三郎殿・百太夫」と現在の西宮神社と比定される前身社号や、現在と一致する神域の記述が見られます。
 「蛭子(児)神がエビス神」として西宮に祀られている文献上の初出は、鎌倉期の「神皇正統録」と「源平盛衰記」で、「西宮のエビス信仰」の定着が知られます。
 「市」の発展は商業も発達させて、「商業守護」の信仰が、「福の神」に発展するにおよんで、京の町衆を始めとして、商人の信仰を集めるようになり、室町期には、商家で商売繁盛と流通(渡り商い・上州持ち下り商人・江戸期の桐生織物では、国売り)の安全を祈願して、「エビス講」が催されるようになりました。
 福の神信仰ならば、漁業と商業者ばかりではなく、農山村すべての人達も、望むところであります。春エビスと秋エビスの実施日は、「田の神」と「山の神」そのもので、「農業神」として、自然に受け入れられます。
 海岸から離れた内陸部まで、恵比須信仰が伸展した背景は、西宮本社の神人(じにん)であった傀儡師(くぐつし)による、夷舁き(えびすかき)と戎まわしの芸能者が、神事芸能とともに、御神札と御神影札をたずさえて、全国に御神徳と御利益を、漂泊布教しました。当初は、豊漁や商売繁盛の御神徳を、理解しやすいように「芸能」をセットしたものと考えられるが、定まった御神徳であっても、自分流に、地域流にファジーに受け入れられて、それぞれの生産活動に対して、福徳をもたらす多種多彩な福の神が各地に定着します。
 首から下げた胸前の箱から、人形(木偶・でく)を出して操(あやつ)る「夷まわし」は、日本が世界に誇る、伝統芸能「文楽」の直接的な祖となりましたが、元来は、神の依代(よりしろ)であった人形(ひとがた)・形代(かたしろ)に、中国から渡来した散楽(さんがく)衆の傀儡(かいらい・操り・からくり)と結ばれ、さらには、「語り物」と合体して、日本独特な人形芝居が生まれました。
 演出内容とせりふ(語り)の実態は不明ですが、文楽への影響以前に、ストーリー性からも、神楽への影響も考えられます。各地に伝承されている里神楽の、「蛭子の舞」、「夷・恵比寿の舞」、「鯛釣り」などは、定番的な演目で、西宮神人による「夷まわし」からの影響と考えるのが、自然であります。
 海や鯛を見たこともない観衆に、福徳財宝が来訪する御神徳を説明する画期的な手法であり、広沢町の賀茂神社に伝承する宮比神楽は、群馬を代表する江戸系里神楽で、海での鯛釣りではなく、居ないはずの川での鯛釣りと、ゑびす様(とともに長老や年配者)を、尊び敬う手法と、作法や、理由まで、説明する演出になっている。
 芸能が伴えば、福の神の御神徳は容易に理解されても、その場かぎりの漂泊布教では、恒久的な恵比須信仰が定着するとは考えられない。
 「エビス」が福の神の本流として、現在に定着した最大の理由は、西宮本社の特徴的な布教手法で、御神札を継続して配布する特権と、寺社奉行からの御墨付を与えて、各地に「西宮社家」として認めた「恵比寿太夫」が、御神札頒布に務めた功績が大きい。
 山形県の阿部家では、配札範囲は数百ケ村に及び、群馬の恵比寿太夫の記録では、早くも正徳四年(一七一一)から、沼田の小林家が世襲的に務めておりました。「沼田寺院并修験社家録」には、「西宮夷」として小林民部。その触下に、左近・主膳が見える。明治期や現在の配札状況は未確認であるが、桐生西宮講が盛んに組織された、明治末期から昭和初期には、沼田・前橋・高崎方面に、桐生の講中が多数存在しました。
 風折烏帽子(かざおりえぼし)・狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)のいでたちで、右手に釣竿を担ぎ、左の小脇に鯛を抱えて、満面に笑みをたたえた御姿は、まさに福の神で、「笑顔にまさる財産なし」とされる福徳円満の象徴であります。
 恵比須神ご神徳の多様性は、昔も今も、そして将来も自由自在に変化進展しても、蛭子大神さまは、全てを受入れて、ゑびす顔で加護して下さるに違いない。
 平成十一年夏、甲子園球場における、全国高校野球選手権大会で、桐生第一高等学校の快進撃は、球都桐生に、破格の自信と勇気、そして活性がもたらされました。
 準決勝戦を明日に控えて、PTA関係者から、「ここまで勝ち進んだからには、(桐生の)ゑびすさまの御本社に、必勝祈願のお参りをしよう」。参拝者が握りしめた「御守り」の神威が通じたのか、おかげで快勝し、決勝戦の早朝には、お礼参りとともに、さらなる御加護を祈願しました。
 神頼みの参拝団が、頒布所で眼にした「御神札・おふだ」のなかに、海なし県の桐生では知る縁(よし)もない「大漁満足」にくぎづけとなり、「大量得点」がイメージされ、藁にもすがる思いから請けた「大型御神札」を掲げての大応援は、マスコミ各社の注目とともに、蛭子大神さまの確かな神威と御加護もあってか、球都桐生に悲願の大優勝旗がもたらされました。
 全国制覇の余韻が残るその年の、桐生西宮神社秋期例祭の準備中に、「ゑびす講に、桐生第一高校が御礼参りに参拝したい」との情報を受け、念のため、西宮本社より急遽「大漁満足」の「御神札」を請けての準備を整えました。
 ゑびす講当日、桐生第一高校関係者はもとより、「商店主」から、「大漁満足は響きが新鮮でお客さんから大好評」、との絶賛の声が評判となり、準備した数十躰が瞬く間に頒布されました。
 現在の「御神徳・御利益」とは、このように多様であります。敢えて、「大量得点」としなくとも、神が一方的に決めるものではなく、努力に値する福徳の招来とともに、ひたむきな精進を見届けた、周囲の善人が主体となって、神とともに、自在に定める傾向となってきました。そのことも、ゑびす顔した「蛭子大神さま」の御神徳でありましょう。